「ゲームの処方箋」研究成果発表記念シンポジウム

昨春、TVゲームの効能面に着目し、その新たな可能性を解明すべく、第一線の科学者・臨床家による本格的な研究「ゲームの処方箋」プロジェクトがスタートしました。一年余にわたる緻密な実験・研究を経て、いよいよその真実が明らかになります。

去年、ナムコ早稲田大学主導で始まった「ゲームの処方箋」プロジェクトが研究成果を発表するシンポジウムを開くらしい。ただ、肝心の発表内容が書かれていないので、不安である。1年弱で出来る研究は限られている上に、そもそも本来の目的である『TVゲームの効能面に着目し、その新たな可能性を解明』するには明らかに足りない。

不安になったので、公開されている発表者を調べてみた。

河合 隆史氏早稲田大学大学院国際情報通信研究科助教授)は、VR系の研究から「マルチメディアコンテンツ学」というものを研究されているようで、具体的な詳細はPC Watchの森山和道氏のコラム記事に詳しい。

これだけだとあまりコンピューターゲームとの関連に乏しいように思われるかもしれないが、実はかつて「TVゲーム研究会*1」というものを渡辺浩弐*2氏や田尻智氏らと一緒に開いていたらしい。というわけで、今回の発表は詳細はどうなるかはわからないものの、期待できそうだ。

宮尾 益知氏(国立成育医療センター発達心理科医長)は、発達障碍(広汎性発達障害、ADHD、学習障碍)や高次認知機能障碍を専門とする医師で、「映像デジタルコンテンツ評価システムに関する研究開発成果セミナー」など、同様の席に多数出席されている方のようだ。発達障碍の専門の方々がどう判断するのか興味深いところではある。

渡邊 克巳氏東京大学先端科学技術研究センター助教授)は認知科学神経科学の専門家で前述の河合氏らと共に日本人間工学会やゲーム学会など等で発表されているようだ。日本人間工学会での発表というのは、設立のプレスリリースで紹介されていたものなのかが気になる。

というわけで、興味を持ったので参加しよう…と思ったのだが残念なことに平日の午後開催らしい…。うーむ、残念。

*1:ちなみに、数年前まではこの研究会の資料、たとえば田尻氏のインタビューなどがネット上で読めたのだが、少し前に調べたところ、いつの間にか行方知らずになっていた。90年代中盤に日本国内でもある程度のゲーム研究の動きがあったらしいのだが、残念なことに当時の資料等がなかなか残っていない。このあたり、研究を引き繋げなかった事が、今の英語圏と日本語圏の研究の差に繋がっている所は多分にあるだろう。

*2:個人的にはD's Garageの司会の人、という印象が強いが。

"Sandbox" ACM SIGGRAPH Video Game Symposium

7月30日〜8月3日の日程でボストン行われるSIGGRAPH2006ですが、それに合わせた同じ会場で、7月29日〜30日と2日間の日程で、ACM SIGGRAPH主催の「Sandbox」というタイトルで、ビデオゲームシンポジウムが行われることが発表になっています。

Siggraphこれだけのゲーム関係がまとまるのは珍しいかもしれない。

どうでもいいことだが、今年はボストンで開催なのか。西海岸ではないのも珍しいかもしれない。

ゲームデザインパターンの"今"

4月からこの本の輪読会に参加している。

The Game Design Reader: A Rules of Play Anthology (The MIT Press)

The Game Design Reader: A Rules of Play Anthology (The MIT Press)

この本はかのRules of Playの著者2人が編者として、ゲームデザイン研究(とそれに役立つ研究)の論文や本、エッセイなどを集めたものである。含まれる内容はかなり多岐にわたり、1ゲームファンが書いた文章から著名な研究者の文章までさまざまな分野のさまざまな年代の文章が載っている。

先週はこの中からゲームデザインパターンについての文章、「Staffan Björk and Jussi Holopainen, "Games and Design Patterns"」について触れた。内容がどのようなものなのかに関しては、d:id:kenjiitoさんが詳細に記述されているので参照されたし。

読む前はある程度期待していたのだが、結論から言えば使えない。方向性としては、d:id:kenjiitoさんも書いているように可能性を感じるところであるが、残念ながらゲームデザインパターンは未だ使えるレベルには到達していない、というのが私の所感だ。理由としては以下の3点があげられる。

1.「パターン」としての枠が大きすぎる

ありとあらゆるものをパターン分析しようという野心的な考えを感じるが、それゆえに現実に使うツールとして考えた場合にとり回しが悪い。

たとえば、「RPGゲームデザインパターン」「FPSゲームデザインパターン」といった風にジャンルベースに制限した中でのパターンが見出せれば、それはある程度有効だろうし、需要もあるだろう。あるいは、以前紹介した「TwoStyleOfPlayAtOnce」のように細かく再分化してグッドアイディアパターンとして成立した方が、現実の開発現場においても重宝されるであろうし、きめ細かな分析も可能だろう。

どうも、「帯に短し襷に長し」という言葉が思い浮かばれてしまうのだ。

2.記述テンプレートの妥当性に疑問

  • 1. 名前
  • 2. 中核的な定義
  • 3. 一般的な記述
  • 4. パターンの使用
  • 5. 帰結
  • 6. 関係
  • 7. リファレンス

果たしてこの挙げられた7つのテンプレートが本当に有効な記述なのかどうか分からない。

この文章によると、ゲームデザインパターンは次のような方法で開発されたものだという。

はっきりいえば、批判的検討の余地がありである。これだけが方法なのか、どのようなゲームをどのように分析したのか、ゲームデザイナー達はいったい誰だ、などなど疑問が尽きない。個人的にはそもそもテキストベースの記述で本当に十分なのか、という疑問もある。たとえ有効だったとしても、信用を得るという意味で不十分だろう。

3.資料的価値を生み出すに至っていない

たとえゲームデザインパターンが分析ツールとして使えたとしても、分析例があまり集まっていないぶんにはまだ「使える」といえるほどの価値がない。

逆に言えば、ゲームデザインパターンによる分析資料がある程度集まって初めて分析ツールとして使えるようになる。現状はまだ時期尚早だ。

ゲームデザインパターンのこれから

ネガティブに書いてきたが、とはいえ、これを否定するつもりはなくて、むしろ5年後・10年後が楽しみであるといえる。なにしろ、歴史が浅い。練が甘く感じるのも仕方ない。実績のある「デザパタ」の名を名乗るが故に、厳しく見られがちであるのは、まあ関わっている研究者達が一番よく分かっていることだろう。

数あるゲーム研究の中でも、開発でも研究でも使えるよう、最も実用志向な研究例のひとつであるのは間違いないところである。共通語彙として、分析ツールとして、基礎概念として、大いに期待が持てる研究事例だ。

DiGRAが日本にやってくる、いい時代になったものだ

海外ではゲームに関する研究は早くから行われており、書籍や論文なども多く発行されています。また、MITなどの世界の各地の大学がゲームについての研究教育プログラムに取り組んでいます。特にゲーム研究に関する国際学会としてDiGRA(Digital Games Research Association)があり、世界各国の研究者が参加し、活発な研究、交流活動がなされています。ところが日本ではゲーム大国といわれながら、学術的な研究は国際的に大きく遅れを取っており、産業界と大学の連携なども不十分です。現在では日本はゲーム研究において国際的に立ち遅れ、孤立しています。我々は海外の研究者から多くの学ぶべきことがあるのに、学ぶことをせず、また海外へ発信すべき優れたゲーム文化があるのに、それを海外へ伝えることを怠っているの状況にあります。

私がこの分野の調査を始めた2002年の春頃の時点でDiGRAは既に立派に運営されていたが、一方で国内の知名度は絶望的に低く(現時点でもそうだが)、その差を痛感したものだった。それから4・5年で、日本国内でDiGRAが開催されるとは、実にいい時代になったものだ。5年遅く生まれるべきだったね、うん。

1952年のコンピューターゲーム

英語版Wikipediaを眺めていたところ、自分の不勉強さが明らかになるようなページを見つけた。

OXOという、いわゆる○×ゲームなのだが、なんと1952年、半世紀以上前に作られたコンピュータゲーム(○×ゲーム自体はもっと前からあるが)らしい。ずっともっとも古いコンピューターゲームTennis for Twoだと思っていたが、こちらは1958年で、6年後のことらしい。

イギリスのケンブリッジ大学で作られたEDSACというコンピューター上で、A.S.Dougla氏によって、氏のヒューマン・コンピューター・インタラクション研究の論文のためにプログラムされたゲームだそうで、知られている限りではグラフィックを伴ったものとしてはもっとも古いコンピューターゲーム、らしい。

いやはや、不勉強を恥じるばかりだ。

プレイヤー、ゲーム、世界(プレイ、ルール、文化)のトライアングル

nongames.comのエントリーにあった図が面白いので紹介。

nongames.com - Triangulations (Juul x Salen / Zimmernan)

今やゲームデザインの本として必ず参照されるようになった「Rules of Play: Game Design Fundamentals」の筆者である、Katie Salen / Eric Zimmermanの考えと、ゲーム研究の第一線にいるJesper Juul(ゲーム, プレイヤ, ワールド : ゲームたらしめるものの核心を探る,Half-Real: Video Games between Real Rules and Fictional Worlds)の考えを相互に組み合わせるとこんな関係が見えてくるよね、という図。三角関係、と訳してしまうと意味がおかしくなるので、なんと表現したら言いかわからないか、三角形の構図である。


The sense of play is internally experienced by the player, The rules are the most defining elements of the game, and culture is not only a subset of the world, but often how we represent and perceive it.

「プレイ」というもの(感覚)は「プレイヤー」の内部的に経験されるものであり、「ルール」は「ゲーム」のもっとも特徴的な定義要素であり、「文化」は必ずしも「世界」のサブセットというわけではないが、しばしばそう表現・理解されている。

ものっすごい基礎の理解の部分の議論なのだけれども、このあたりですらまだまだ曖昧な上に研究が先行しているのが洋の東西を問わず、現状なんでしょうな。そういう意味ではこういう図で示されるということはとっても意義深いことだと思う。もちろん議論の余地があるのは元エントリーでchico氏が仰っている通り。