ユビキタスエンターテイメントの限界

ConquestArrow2004-10-20


ユビキタスという陳腐化した言葉がある。世の中は陳腐化したものしか受け入れないが、昨今この言葉が世の中で騒がれているということは、陳腐化したということの証明だろう。

この言葉はありとあらゆるものの接頭語として使われてきた。ところによっては現在進行形かもしれない。「ユビキタスエンターテイメント」もその例だ。ディジタル、ブロードバンドなどの陳腐な先例と同じ道を歩んでいるようだ。

別に陳腐化しているから悪い、と言いたい訳ではない。陳腐化とは普及と同義であり、普及するだけの素養がなければ広まらない。是非の問題とは別次元の話だ。

しかし、気をつけなくてはいけないことがある。先例である「ディジタル化」「ブロードバンド化」などよりも「ユビキタス化」がエンターテイメントに、より本質的な影響を及ぼす、ということだ。便利になりましたとか、こんなことも出来ます!などという話とはレベルの違う重要な話である。

まず、ユビキタス化とは何か。簡単に言ってしまえば「透明化」「日常化」だ。まるで空気や水の様に存在を意識せず、生活の中に溶け込む…、これが多くのコンセンサスを得るユビキタスの姿だろう。特にユビキタスコンピューティングは、一般的でなかったコンピュータが日常に入り込む、という意味で注目を受けているようだ。

次に、エンターテイメントとは、娯楽とは何か。日本の伝統的な考え方に「ハレ(非日常)とケ(日常)」というものがあるが、エンターテイメントは「ハレ」に当たる。日々の生活の連続は、人間にとって宜しくないようである。人間が単純な機械と区別されているのは、こういうところに要因があるのかもしれない。理由はともかく、日常の連続だけでは人間は生きてゆけない生き物らしい。その人間にとって不可欠な非日常としての存在、それがエンターテイメントであり娯楽である。

これらの前提に立って、「ユビキタスエンターテイメント」を見つめなおすと、こいつが本質的な内部矛盾を抱えていることに気が付く事だろう。ユビキタスエンターテイメントは、非日常であることに価値があるエンターテイメントの日常化である。つまり、ユビキタスとエンターテイメントはある意味、相反する概念なのだ。

相反する概念の融合は、特に反発して爆発を引き起こしたりすることは無い。単に片方に取り込まれるだけの静かな変化だ。つまり、娯楽が日常化し、その魅力を失うというだけのことである。

この問題は実は古くから、というより、エンターテイメントと言うものが存在して以来の問題である。エンターテイメントが普及すると、それは日常の生活の一部となり、暇つぶしやストレスの発散のための道具*1と化し、魅力の輝きを失う。これを人々は「飽き」と呼び、エンターティナー達はこれと戦うために質の転換を図ってきた。簡単に言ってしまえば、エンターテイメントの歴史とはこれの繰り返しなのである。

結局、ごく一部の、質の転換を起こすことの出来た例*2を除いて、ユビキタス化はエンタテーメントの陳腐化を加速しただけであった、ということだ。これがユビキタスエンターテイメントの限界と現実である。

便利だ、とか、世界を大きく変える概念だ、とか言うものはエンターテイメントにとっては自らの陳腐化を引き起こす劇薬のようなものだ。常に世の中の一歩先にある可笑しくて変わったものを見てゆかねば、amaseを起こすことは出来ない。そう考えると、なんとエンターテイメントは難しいことなのだろう。いやはや、実に悩ましい。

*1:エンターテイメントの価値をこれらにしか求められていない意見をよく目にするが、そんな単純な話ではないことは、生命にもっとも重要な生殖行為すら娯楽と化している人間という生き物の存在を見れば明らかだろう。

*2:ポケモンは外せないだろう。だが、これ以外で何があるかというと、急に答えに詰まる。それくらいごく一部の奇跡的なことであるともいえよう。