日常のアート、非日常のゲーム


こういった参加型の「アート」の役目とは「日常の非日常化」というべきか、その肝心な所は普段触れてる物の不思議さや何となく接している慣習や概念の不可思議さを観客に体感させ、そして「発見」させる事にあるかと思う。よって、その「作品」とは、その「発見」の為の「視点」を観客に与える「ルーチンからの解毒装置」という役目を担う事になるのである。

(中略)

しかし、逆にゲームという製品は「非日常の日常化」というべきか、参加者をゲームという非日常の世界を作るルールに慣れさせ、その中で欲求不満と浄化作用を交互に起させ、そしてそれを永遠に行なわせるところがその重要な核となる部分であるかと思う。それが目指す物は、参加者から現実感を剥ぎ取っていく「ルーチンへの中毒装置」である筈だ。


メディアアート」と「ゲーム」の差異について。草原先生や土佐社長とこの日にお話したことを援用すると…「日常を鮮鋭化していく」のか「非日常を太らせていく」のかの違いである…と纏めることもできそうだ。

非常に興味深い話。表裏一体な存在である両者をここまで対比した例を見たことが無かったので鱗が落ちた。ゲームが非日常である、という話に関しては以前から私も気がついていたのでここの過去の記事でも言及している。だが、アートに関してまでは頭が回らなかった。

なるほどこうやって対比すると、表裏一体でありながらしかし大きな差異が見えてくる。日常と非日常というボーダーラインを鏡として、鏡像を結んでいる、という訳か。

しかし、不思議なものだ。いつも見ている日常であるはずなのに大衆に受け入れられないアート。非日常のはずなのに何故か大衆に受けてしまうゲーム。ビジネスとの親和性も考えると、日常が売れず、非日常が売れる、という奇妙な構図が浮かび上がる。あるいは、あまりにもありふれ過ぎるが故に、日常には意味を見出さず/見出せず、奇妙な非日常に意味を見出し、好奇心の目を向ける、ということなのだろうか。ふーむ。

ちなみに、最初の引用先で例のエレクトロプランクトンが商業的にどうなのよ、という話が出ていた。こういう意見は少なくないが、今回はその根拠がハッキリしているので説得力がある。だが、注意すべきことは、それに最初に気がついていたのは他でもない作者本人だということだ。本人が我侭で出したい!といった訳では無さそうである。裏には2人のビッグネームのスポンサーが付いているし、そのかれらの強い意向があったという。で、あるならば無策ということは考えにくい*1。彼らにも責任はある訳で、少なくとも商業的に何らかの形で利益とならなくてはならない。そうすると何らかのヒントが含まれていてもおかしくない。まあ、現状では私の見当違いも十分に考えられるのだが*2

*1:いや、実際無策だったなら名指しで批判するが。

*2:もしかすると現時点でWEBにあまり知らされていない例の某表現方法論研究者とこの作者の対談イベントがヒントのヒントかもしれない。