遊びの限界、ゲームの限界―『「おもしろい」のゲームデザイン』書評(2)

『「おもしろい」のゲームデザイン』を読んでから、また再び"認知科学的視点"というものを再評価するようになった。この本の一つ抜きん出た部分といえば、やはり認知科学的視点だ。これから読む人は、認知科学的知識をちょっと齧っておいてから読んでみると見えてくるものが違うだろう。それくらい重要だろうと思う。

さて、読了してから数ヶ月経った。そろそろ単なる感想だけではなく、先に考えを進める時期だろう。そこで今回は、遊びの限界あるいはゲームの限界というものを、ラフ・コスター氏の考えを借りながら考えてみたい。

「おもしろい」のゲームデザイン ―楽しいゲームを作る理論

「おもしろい」のゲームデザイン ―楽しいゲームを作る理論

ちなみに、前回の記事「一部難有り、だが必読―『「おもしろい」のゲームデザイン』書評(1)」。

現実のパターンの数は実はそれほど多くない?

子供のころに遊んだ遊びは、とても面白かった、という記憶と共に美化されていることが多い。同時に、ある程度成長してから見て見ると、それほど魅力的でもない、ということも多い。この現象を『「おもしろい」のゲームデザイン』の視点から説明すると、幼少時代は経験する遊びが新しいパターンであったため、面白く感じるが、成長するとそれは既に学んだ(陳腐な)パターンであるため、脳のフィードバックが起きない、と説明可能である。

ここで驚くのが、子供時代のあそびのパターンの少なさである。遊びの種類自体は数多くある。また、時代や文化・環境などによっても沢山のバリエーションがある。しかしながら、基本的なパターンのバリエーションは「えっ、こんなに少なかったっけ?」という感想を抱くぐらい少ない。ためしに、子供時代の遊びを思い起こして見て、冷静に見つめなおして見ると良く分かるだろう。「あの遊びとこの遊びって実はほとんどおんなじじゃん!」という例に沢山出会えるだろう。新しいゲームのアイディアを子供時代の遊びからヒントを得よう、というのは良くあることだと思う。だがしかし、あまりその考えが上手くゆくとは限らない、というのもその所以である。

遊びあるいはゲームは現実の抽象化・モデル化である。とするならば、その抽象化のパターンが少ない、ということは何を意味するのか?答えは、現実というものの基本的パターン自体が少ない、ということになりはしないだろうか。

これはあくまでも可能性の話なので、実際にそうとは限らない。だが、可能性の一つとして、現実を抽象化して見出せるパターンの総数はそれほど多くない、ということが考えられるのだ。晩年のアインシュタインが統一理論に夢を抱いたように、物理学者が一つの数式で世界のすべてをあらわす夢を持つ気持ちが、なんとなく分かるような気がする。

遊びの限界・ゲームの限界は、人間の認知の限界のことである

パターンの総数が多いか、少ないか、という議論はとりあえず保留にしておく。ここで重要なのは、現実を抽象化して見出せるパターンは無数ではなく、有限だ、ということである。

ここで認知科学的視点のお出ましだ。これまでカンタンに「現実」という言葉を使ってきたが、これがまた厄介な言葉だ。われわれは普段、現実の"現実性"に対してなんら疑問を抱かない。つまり、「この現実って本当に現実なんだろうか。今吸っている空気は本当に吸っているのか?そもそも空気が本当に空気なのか?」という疑問は、思春期や精神が不安定な時、映画「マトリックス」を観た後でもない限り考えないものだ。だが、認知科学的視点は、この疑問に対して、ある意味非常に"冷めた"答えを用意している。脳が(あるいは意識が、自分が、…)認識できたもの、あるいは現実だと認識したものが「現実」で、それ以外は現実ではない、という答えだ。言い換えれば、現実は真実ではない、ということになろうか。

「現実を抽象化して…」という時の「現実」はもちろん、この視点に立てば、脳が認識できたという前提での「現実」である。人間の脳が認識できない、あるかもしれない本当の真実は、この「現実」に含まれていない。

ということは、抽象化して見出せるパターンの限界は、脳の世界を認識する能力の限界に左右される、ということになる。そして、それは、遊びのパターンやゲームのパターンの有限性を示唆する

人類の歴史の中で、現代ほど新しいパターンの発掘が試みられた時期は無い

これはゲームデザイナーを含むゲーム開発者にとって由々しき問題だ。おそらく多くの開発者が「やりつくした感」を日々抱いている中、遊び・ゲームのパターンは有限で、もしかするとあんまり多くないかもしれない可能性があるという事実。パターンの上限数は人間の認知能力が向上しない限り変わらない。それはプレイヤーが面白いと思うパターンの提示に限界があるということを示す。そしてまた、これは、新しいゲームデザインを生み出す困難さ、新しい驚きをプレイヤーに提供することの難しさを語っているわけである。

既に市場にはどこかで見たようなタイトルが溢れ、ディテールだけ差別化をはかりゲームデザインは転用という事例が多い。驚きを提供できなくなった娯楽*1が衰退の道を辿る事は歴史が証明している事実である。このまま衰退してゆくのか…と一瞬不安がよぎる。

人間の認識能力が、生物学的な限界、つまり人間というハードウェアに()るものであるならば、その不安は的中してしまうかもしれない。人類が生物的に進化しない限り、能力は向上せず、現実の抽象化パターンの上限も変わらない。人類はここ数万年、生物学的にほとんど進化していない訳で、つまり遊び・ゲームのパターンの上限も大分長い間そのまま変わらないだろう、と予想がつく。生物的進化の前に産業の衰退が起こるだろう。

だが、人間の認識能力がソフトウェア的な進化にも()るものだとしたら、どうだろう。その不安は不安でしかなくなるのではないか。考えても見れば、人類の歴史の中で、現代ほど新しいパターンの発掘が試みられた時期は無い。特にコンピューターゲームの場合、月に十数本も新しい商用タイトルがリリースされている。少なくとも、その数だけは何らかの新しいパターン提示が試みられているわけだ*2。その無数のパターン発掘の試みが、何の根拠も無く闇雲に行われているのだろうか?何らかの目星があるからこそ、新しい試みが続けられているのではないだろうか?

新しい遊び・ゲームのパターン発掘の可能性

個人的意見だが、多分人間の認識能力は、ソフトウェア的な進化で拡大するだろうと考えている。脳科学認知科学の専門家から見たら、鼻で笑われてしまうかもしれないが、とりあえずそう信じている。その根拠として、一連の幻肢研究などで言われているボディイメージやボディスキーマという考え方と、ゲーム(特にコンピューターゲーム)がそのボディイメージ・ボディスキーマを操る存在であるという考えを個人的に持っているからである。ここら辺はまだあまり詳しくない上に、考えもまとまっていないので、とりあえず文章化は保留にする。

とりあえず言えることは、ゲーム(特にコンピューターゲーム)が人間の認識能力を進化させる可能性(もっといえば「現実」それ自体を拡大する可能性)があるということだ。本当ならば、多分、『お手玉に拠る脳の活性化』よりも大きなインパクトがあることだろう。

まとめ

…と、幾分脱線気味かつ妄想気味になったところで、当初の地点に戻そう。

『「おもしろい」のゲームデザイン』という本は、こういったゲームデザインから人類の進化といったオカルト気味の話を書きたくなるような、示唆に富む本だ。何かを追求する時に重要なのは、その事象の限界と可能性、どちらにも精通していることだ。ラフ・コスター氏の文章は、ゲームデザインおよびゲームの可能性と限界のどちらにも目を向けさせてくれる。彼は時に、悲観的にゲームの限界を書き、また時に希望を持ってゲームの可能性を語る。私がこの本の後半部分をゲーム開発者を目指す人・新人ゲーム開発者すべてに読んでもらいたい、と思うのはこういった理由からだ。色々問題のある本でもあるが、やはり必読であるという考えは今なお変わらない。

  • 現実のパターンはそれほど多くないかもしれない
    • 子供の遊びのパターンは意外に少ない
  • 遊び・ゲームのパターンの限界は、人間の認識のパターンの限界である
    • 「現実」とは人間の認識そのもの
    • 「現実」の抽象化・モデル化こそ遊びやゲーム
  • 新しい遊び・ゲームのパターン発掘の可能性
    • 人間の認識が生物的ハードウェアのみに縁るものなら、ゲーム産業は衰退する
    • 人類の歴史の中で、現代ほど新しいパターンの発掘が試みられた時期は無い
    • ボディイメージ・ボディスキーマを操る存在としてのゲーム
    • 人間の認識能力を進化させる可能性
  • こういう示唆に富む『「おもしろい」のゲームデザイン』はすごいね

*1:伝統芸能の多くが当てはまる。

*2:それが出来ているか否か、はまた別の問題であるが。