ミクロ視点の"ストレス・デザイン"とマクロ視点のゲームデザイン

先日書いた記事「なぜ「デザイン」という行為、「デザイナー」という職業は誤解されるのか」では、ゲームデザインユーザーインターフェイスデザインを通してデザイン全般について書いたのだが、今回はその題材となったゲームデザインユーザーインターフェイスデザイン、そして本題の「ストレス・デザイン」について書いてみたい。

我慢を強いるデザインと我慢を最小限にするデザイン

先日こんな記事を見かけた。

ファッション評論家ピーコの名台詞「オシャレは我慢よ!」に象徴されるように、バリッバリのオサレを追求する衣服のデザインの世界では、機能性のみを考慮したデザインの服はあまり歓迎されません。

(中略)

ファッション系のブランドのHPのデザイン見て「UIデザインがどうたら〜」って言うことに対して、私はあんまりピンとこないです。オサレオタにとっては、ファッションを消費する過程において我慢をすることなんて当然のことです。だから、ファッションブランドのHPのUIデザインが悪いとかどうとかって、そのブランドを支える核となっているユーザーは実はあんまり気にしてないんじゃないんでしょか。むしろ、(中略)UIデザインなんてわざと悪くしてるんじゃないでしょうか。

この「オシャレは我慢よ!」という話は私も聞いたことがあって、「ああならば自分はオシャレには永遠に縁がないなぁ」と思ったりもしたのだが、ここで注目したのは、衣装デザインとはユーザーに我慢を強いるデザインだ、という点である。

なるほど、衣装のデザインがユーザーにストレスを如何に与えるかのデザインならば、衣装デザインに於けるデザインが、機能設計ではなくて意匠である理由もすっきりする。「社会が形成した美意識に従うことによって、自分が所属する社会の中でのポジショニングをより優位にするため」に意図的にユーザーにストレスを与え、我慢を強いることを目的とする設計なのだ。我慢を極力減らすことに主眼のあるUIデザインとでは、「デザイン」の意味合いが違ってくるのも半ば当然だろう。

さて、この視点に立って、「我慢」あるいは「ストレス」というキーワードと絡めて見ると、ゲームデザインにはとある面白い特徴があることが見えてくる。ゲームデザインは、この我慢を意図的に強いることもあれば、意図的に低減し、逆にプレイヤー(他の分野でいうところのユーザー)に快楽を与えることもある。いわば、「我慢・ストレスを操るデザイン」という特徴があるのだ。

コンピューターゲームのUIデザインが飛び抜けて優れているその理由

コンピューターゲームのUIデザインが非常に優れていることは多くの人が指摘することである。ゲームニクスシリアスゲームといった概念でもコンピューターゲームのUIは非常に重要視されている。あるいはUIデザイン研究でも積極的にコンピューターゲームの成功事例を学ぼうという動きがある、と聞く。よく、初心者にでも簡単に理解・実行できることを示す売り文句として「サルでもできる」という言葉があるが、コンピューターゲーム本当にサル(正確には類人猿だが)でもできるものがある。まあ、スーパーマリオブラザーズなども英文ばかり表記されているのに当時の日本の小学生は難なくクリアしていたわけであるし、実際開発現場でも「マニュアルは読まれないもの」という前提認識で開発されることが多い。このようにコンピューターゲームのUIの出来の高さは数多くの賛成と証左を得るものである。

一方で、何故それほど優れているのか、という理由にかんしてはこれといった説を聞かない。歴史が長いだとか、プレイヤーからの要求水準が高い、などとか様々な説があるものの、歴史が長いだけならばTVのリモコンはもっと便利だし(なんだあのボタンの数の多さは?)、要求が高いこととその要求に答えるUIを用意できることは別の話である。

色々考えてみて、一番しっくりきた説は、ゲームデザインがストレス(苦楽)を操ることを極力邪魔しないため」であった。前述のように、ゲームデザインというのはプレイヤーのストレス(快楽・我慢・苦痛などなど)を操る特徴がある。そういった設計をする際に、何が邪魔になるかといえば、本質のゲームデザイン以外の所でストレスを与えたり、我慢を強いたりするものである。UIはマン(人間)とマシン(機械)を繋ぐ仲介者の存在であるからして、必ず必要なのだが、同時に極力空気のような存在でなくてはいけないことを運命付けられている。特に(コンピューター)ゲームにおいてはその兆候は顕著であり、UIがストレスを負荷するものであると、とたんにゲーム全体が破綻することは良くある。そういうUIはゲームデザイナーは勿論だが、何よりも消費者でもあるプレイヤーが一番敏感に嫌う。消費者に嫌われた必需品でない商品の辿る道は消滅であり、ルール単体や意匠では受け入れられそう(UI以外は優れた評価)なのにUIが酷いがためにプレイヤー(消費者)に「クソゲー買ってはいけない商品)」扱いされたゲーム(商品)は枚挙に暇がない。

ストレスを自由自在に操るデザイン=ゲームデザインと同居するデザインであるが故に、"必然的に"コンピューターゲームのUIデザインはストレスの少ない、我慢を強いらない優れたものになった、というところなのだろう、おそらく。ゲームUIデザインの進化はゲームデザインの進化の結果でもあった訳だ。

ストレス・デザインとその視点から見たludume(primary elements,ゲームプレイ原子)

さて、もう少しつっこんでみよう。

ここまでは便宜上ゲームデザイン(マクロ視点設計)とストレスデザイン(ミクロ視点設計)をほぼ同一視してきたが、ここからは厳密に分けることにする。つっこむ、わけなのでミクロ視点、つまりストレスのデザインについて述べたい。

ゲーム開発者、あるいはゲームデザインに少しでも興味のある人ならば以下に示す言葉は一度ぐらい聴いたことがあるだろう。代表で、一番目は桜井政博氏、二番目は水口哲也氏に登場して頂こう。

実はこの3つはほぼ同じことを言っていることに気がついただろうか?ストレスという視点から見れば、実は同じことを別の言葉で言い換えているに過ぎない。

映画の世界では感情曲線という見ている人の感情の高まりをグラフ化したものを用いている。いわゆる起承転結をもう少し細かく、各映画作品ごとに細かく見られるようにしたものである。下の図は一般的な感情曲線の例だ。

感情曲線は感情(喜怒哀楽)の高まりを示しているわけだが、この考えを応用すると、ストレスの曲線を描くことが出来る。それが次の図である。

感情曲線とこのストレス曲線(便宜的にそう名づける)を比較すると、感情曲線の上限のパターンは、基本的に一作品ごとである。一方、ストレス曲線で示したゲームプレイは非常に短いタームである。たまったストレスをアクションをすることによって開放し、次の周期へ、というひとつの周期の流れである*1

ゲームプレイの全体から見ると、このようにストレス曲線は繰り替えし構造をもつ、と考えられる(ちなみに、曲線は適当である)。これはよく言われることだが、ゲームが繰り返し構造をしている、という事実と繋がる特徴である。一つ一つのストレス曲線の周期はプレイの最小単位を示す。これは、『「おもしろい」のゲームデザイン論』などでも取り上げられている、Ben Cousins氏の概念を借りれば、ludume(primary elements,ゲームプレイの最小要素・原子)である*2、と言えないだろうか。用語の使い方には自信がない。

ちなみに、この場合、波の振れ幅はストレスのかかった度合い、つまり一般的に言うところの「難易度」・「レベル」を表すことになる。もちろん、この振れ幅も適当なので、ゲームデザインの違いによって、どういったストレスのデザインがされるかは異なることは言うまでもない。

ゲームデザインの方向性によって、より細かい設計であるストレスのデザインが決まり、全体の設計(=ゲームデザイン)が決まる、と言うわけだ。

まとめ

この話は先に進めると「ゲームとは何ぞや」、という話まで行くのだが、現在の不勉強な私にはこれ以上進める力は無いのでとりあえずここで終わりにしたい。ストレスデザインがゲームデザインに固有のものか、と言うことも私には分からない。確実に言える事は、ゲームデザイン視点からのストレスの固有な設計は可能であり、また必要である、ということぐらいである。

この方向性での考え方は、ラフ・コスター氏の「学習機会としてのゲーム」という捉え方では捉えきれない、「感覚(あるいは感覚質・クオリアと言ってもいいかもしれないが)を操る存在としてのゲーム」という捉え方のひとつに入るのではないか、と思う。

多分海外の研究を漁ればもっと進んだ研究が出てくるのではないか、と思うのだけれども、これまた不勉強にて知らない。何かご存知の方は是非情報を。

  • ゲームデザインは我慢(ストレス)を操るデザインである
    • 一方、UIデザインは我慢を最小限にするデザインである
    • ゲームのUIデザインが優れているのはゲームデザインのストレス操作を極力邪魔しないため
  • マクロ的視点のゲームデザインとミクロ的視点の「ストレスデザイン」
    • ゲームプレイに於けるストレスは曲線を描く
    • ゲームプレイに於けるストレスの曲線は繰り返し構造を持つ
    • ストレス曲線の一周期が、ストレスデザインから見たゲームプレイの最小要素単位

追記

ちょうどGamasutraで公開されたばかりの「A Circular Model of Gameplay」という記事では、ゲームプレイの最小単位について、メカニズム的な視点から述べていて非常に面白いので、これも必見かもしれない。

*1:The unit of interaction

*2:Ben Cousins氏のludumeはもうすこしメカニカルな考え方である。http://www.bencousins.com/この場合はストレスデザインの視点から見たludumeと言えるだろう。