なぜ『青少年有害論を説く彼ら』はこどもの事を信じられないのだろうか?

コンピューターゲームに関る活動をしていると、コンピューターゲームに対する批判に出くわすことが良くある。批判が無い世界ほど気持ち悪いものもないので、参考になる…はずなのだが、困ったことに未だかつてまともな批判に出会ったことが無い。そもそも対象に対する理解が話しにならないレベルなので参考にしようが無いのだ。

先日もそのような理解でモノを書いて利益を得ている不埒な輩を発見した表現者、作り手の一人として猛省を促したいところであるが、今回もいつもの「ある特徴」が見受けられた。この「ある特徴」について思うところあるので書いてみたい。

彼らは子どものことを信用していない

さて、先ほどの例からその「ある特徴」に当てはまる部分を引用してみよう。

キレやすい子供、不登校、学級崩壊、引きこもり、家庭内暴力、突発的殺人、動物虐待、大人の幼児化

幼児のときから人間の心に残っている「良い存在」と「悪い存在」に二分する思考法をファンタジーが快く刺激してくれるからだ。

「子どもの二度とない貴重な時間が、奪われていくのだ。(中略)だが、中毒状態になりかけの子どもは、もうそのことしか頭になく、いくら保護者が注意し言い聞かせても、自分で行動をコントロールすることは非常に困難なのである」

これら全てに共通する特徴は、「子どものことを信用していない」という特徴だ。直接的・間接的に子どものことを馬鹿にし、信用していないことがまじまじと見て取れる。

彼らは実は「子ども有害論者」である

ゲーム有害論者・ネット有害論者・ケータイ有害論者(&ロック有害論者・野球有害論者・etc..)は実は『子ども有害論者』である。彼らの主張は一見その対象(ゲーム・ネット・ケータイ・ロック・野球・etc...)に対しての批判であるかのように見えるが、実際のところは「子どもは危険だ」と主張しているに過ぎない。何故ならば、彼らは一切対象の本質への批判をしないからである。

彼らの批判は主に「表現」「健康」「しつけ」への影響を問題視している。この時点で、対象はなんでも当てはまる、ということに気がつくだろう。例えば、「表現」を例に挙げると、暴力表現・性表現が常に批判の対象になっている。しかしながら、道徳的な表現に対しては彼らは一切批判をしないし、さらに道徳的ならば暴力・性表現すら認めることもある*1。まさにダブルスタンダードだ。このことは、「表現」の影響が「表層の枝葉」であるということを示している(表現の内容によって評価が変わるのであれば、その表現をもつ対象はなんら関係ない)のだが、不思議なことになぜか彼らはそのことに触れない。

批判の中には、個々の対象の特徴に対して批判をしている事例もある。例えば、コンピュータゲームのインタラクティブ性の高さに対しての批判がある。

だが、これらのメディア(注:「小説、漫画、映画、テレビなどの既存大衆メディア」)は受動的なものであったがゆえに、受容者が現実とファンタジーを簡単に取り違えることはなかったし、人類の心にインプットされた暴力回避装置のピンが抜かれることもなかった。ところが、仮想現実への「参加」を可能にしたゲームは、受容者にこの敷居をいとも簡単に越えさせてしまったのである。

これは分かりやすい例だが、では逆に聞くが、インタラクティブでないものは世の中にどれだけあるのだろうか?ここで挙げられた「小説、漫画、映画、テレビなどの既存大衆メディア」がむしろ特異な存在ではないのか?

インタラクティブ性はコンピューターゲームの特徴の一つであることは確かだ。同時に、世の中に存在する殆ど全ての事象の特徴でもある。要は、なんら本質に触れない批判だということだ。彼らは本質を批判しているつもりなのかもしれないが、旧世紀の遺物である理論*2を振り回し、狭い対象としか比較せず*3、「ゲームはメディアではない」という研究*4をなんらふまえていない。

理論武装しているつもりの批判は沢山見受けられるが、そのほとんどすべてが畑違いの分野の理論を振り回しているだけに過ぎない。畑違いの勘違いは本質ではなく表層か、良くて他の存在にも言える特徴に対しての批判でしかない。本当に批判するつもりなら、本質をまず見抜く作業が必要だ。だが、彼らはその基本作業をサボっている。彼らには必要ないからだ。彼らの本当に批判したい対象、それは「子ども」だからだ。

「子ども害悪論者」たちは、彼らが子ども時代に嫌っていた存在に自分自身がなっていないか

彼らは子どものことを信用していない。他の存在を批判しているように見せかけて、結局は子どもへの不信を表明しているに過ぎない。場合によっては世代批判や人間批判を兼ねている時すらある。

こういう話を見るたび、なぜ彼らは子どものことを信用して挙げられないのだろうか、と思う。確かに、「子ども」は大人と比べて力も弱く、知識量も少ない。多くの人間が、保護の対象と認識している。だが、そのことは、子どものことを見下してもいいということではない。彼らは正しい知識さえあれば、判断能力は大人に劣るどころか、凌駕する。

私はゲームデザインに注目して数年になる。そのゲームデザインという視点から子どもの能力を評価してみると、非常に高いと評価せざるを得ない。ゲーム開発者たちはプレイヤーに対して、こう遊んでもらおう、ああ遊んでもらおうと綿密な計算に基づいてゲームを開発する。だが、多くの場合、子どもたちはその想定の範囲を超えてとても思いつかないような遊びを自発的に生み出す。逆にある程度成長してしまうと、開発者が用意した遊びしか遊ばなくなる。子どもたちの創造性とゲームデザインの能力の高さには驚くばかりだ。

ゲームデザインの能力は加齢と共に失われる。本業のゲームデザイナーはゲームデザインの能力を訓練によって保っている、といっても良いくらいだ。人間の幼少期における遊びの能力はとてつもなく高い。遊びの能力が高い、ということは、学ぶ能力が高いということと同義だ。少なくともこの点に関しては、年齢や経験のある大人よりも子どもの方が能力が高い。私にはとてもではないが子どもを見下すことなど出来やしない。

常識に頼り、自らの頭脳を使わない「考えない葦」に成り下がった大人より、日々の出来事一つ一つに驚きと興味を示して常に頭をフル回転させている子どもの方が、私にとっては信用に値する。私は人の親ではないが、自分の子どもが信用できない親にはなりたくないし、子どもを見下す「嫌な大人」にもなりたくない。なにより、子どもたち自身が、不当な評価に対して反発している。それは「子ども害悪論者」たち自身も子ども時代に感じていたはずなのだが、いつの間にかさっぱり忘れてしまっている。皮肉なことにそれは、子どもの判断力の高さを示す傍証でもあるのだ。

*1:参照: 日本PTA全国協議会 特薦 文部省 推薦「はだしのゲンhttp://www.jhv.jp/title/Video/anime/KL-2030.html

*2:正確には理論ですらない。失笑モノの与太話だ。

*3:多分、かれはコンピューターゲームとスポーツが同じものである、ということすら知らないのであろう

*4:Jesper Juul『ゲーム, プレイヤ, ワールド : ゲームたらしめるものの核心を探る』―「本定義はゲームがメディア間を移動する (transmedial) ものであること、つまりゲームという単一のメディアは存在せず、むしろ多種のメディアが存在するのであり、それぞれが固有の長所を持っているということを明らかにする。」