ゲームデザインを研究するということ

先日公開した"ゲームデザインの授業がある大学(国内編)"を見ればわかるように、国内でもゲームデザインの授業がある大学はやっと二桁を数えるようになった。と言っても専門学校系を含めればとっくの昔に二桁いっていたはずだ。今回のリストで専門学校を含めなかったのは、ゲームデザイン職業訓練技法ではなくて、建築設計が学問であるようにゲームの設計学として捉えたからである。

もちろんリストで挙げられた授業が学問足りうるか、といえばはっきりいって疑問ではある。大学だから、ということはまずない。そもそも1年、もしくは半年の期間で一体どこまで出来るのか。ゲームデザインは他のゲーム研究に漏れず学際的だ。親である遊び学、デザイン学にしても学際的だ。そんな多くの分野にまたがり、前提としての知識も必要なものを詰め込んで、果たしてうまく行くのか疑問である。いくら研究が進んでいない、とはいえ、現状を語るだけでもそれなりにやろうとすればそれなりの量にはなる。より実践的であろうとすれば、実際の設計作業は必須だ。となれば、明らかに時間が足りない。その意味で、あのリストを見るだけでも、ゲームデザイン研究の質がはかれてしまうのだ。

ゲームデザインを研究するとは

とはいえ、ゲームデザイン研究自体はそれほど難しいことではない。というのも、実はゲームデザイン自体はすべての人類が経験していることだからだ。

なんのこっちゃ、と思うかもしれない。ゲームデザインを実際にしたことなんてねーぞ、というのが大半の人の意見だろう。だが、実際にはほとんどすべての人がゲームデザインを経験済みである。ただ、それをゲームデザインと呼んでいないだけだ。

ほぼすべての人がゲームデザインを経験する時期は幼少期である。カンのいい人ならもう気づいたことだろう。子どもの時は伝統的な遊びもするが、それ以外にも即興的な遊びをする。子どもは遊びの天才、とはよく言ったもので、まさに無から遊びを生み出す能力を持っている。この、即興的遊びが生まれる段階で無意識的に行われている行為が実はゲームデザイン*1。即興的遊びはおそらくほぼすべての人類が経験することだろう。ゲームデザインはすべての人が経験済みである、ということの所以だ。

ここで言いたいのは、ゲームデザインとは別に舶来ものの新しい概念でも何でもない、ということだ。ごくごく我々にとって馴染み深い、身近なものである、ということだ。その身近な存在を、子どもだけのものにせず、より追求してゆこう、というのがゲームデザインを研究するということだ。そう、ごく簡単なことだ。

問題は、その即興的遊びを生み出す能力をすべての人が備えていたにもかかわらず、成長とともに放棄し、二度とその能力を振るわなくなってゆくことが多いということだろう。ゲームデザインという作業はその能力を再び発揮するということなのであるが、その事実は知られていないがために、大多数の「大人」にとっては縁のないものと見られてしまう。既に経験済みのものを「関係ねーよ」、とスルーされてしまうわけだ。したがってゲームデザイン研究はニッチなものにその存在が押しやられてしまう。実に残念なことだ。

個人的にはより多くの人が、自分の持っていたはずの能力に再注目してほしいと願うばかりである。また、ゲームデザイン研究が単にビジネスに役に立つというばかりでなく、人間の根幹を見つめる学問であって欲しいとも願っている。

まとまらなくなったが、そんなとこだ。

*1:ここで遊びとゲームの区別をつけるのが妥当であるかどうかは議論のあるところだろう。個人的にはこの段階での遊びとゲームを明確に分ける必要はないと考えている。