ハレとケの話の続き

昨日書いた事の続き。

昨日の話は、もともとSNSはゲームなのか、というところから出た話だけれど、とりあえずこれは持ち越し。で、ゲームとハレとケの話。

コンピューターゲーム、特にいわゆるテレビゲームは「ハレ」として熱狂的に受け入れられた。発売日に長蛇の列、なんて”お祭り”騒ぎはその証拠として分かりやすい。

今の流れとしては、これが「ケ」の方向へ向っている。別に存在自体が珍しい訳でもなくなり、コンテンツそれ自体の力で驚きを与えているかといえばそうではない。非エンタテイメント用途にゲームを活用しようというシリアスゲームはその流れの最右翼だ。*1

元々現代の生活ではハレとケ、正確には”旧来の”ハレとケが混ざりつつある。そういったなかで、日常生活の中の「ハレ」という方向性が多く見られる。端的に言えば、携帯電話などいい例だ。役に立つし、面白い。まさにケの中のハレである。ここ最近、「ゲームが役に立つか」というテーマをよく耳にするようになった。娯楽であったゲームに「役に立つ」というある意味真逆の概念をつき合わせているわけだが、そういうことをするのが現代だ。

「役に立つゲーム」とは何か。色々試みもあるし、色々役立っているものもある。エデュテイメントはよく、例に出される筆頭だが、「つまらなくて役に立たない」ものの筆頭でもあったりするので、あまりいい例ではない。

実は一番普及している「役に立つゲーム」とは携帯電話向けゲームである。携帯電話向けゲームは、昔ながらの「枯れた」ゲームがほとんどである。携帯電話向けゲームでオリジナリティ溢れるタイトルを、という試みはコストに見合わず、そもそもユーザーに求められていない。つまり、「ハレ」は求められていない。求められているのは、「ひまつぶし」になる「ケ」。ほんのり「ハレ」の雰囲気が味わえるぐらいの「ケ」、それが携帯電話向けのゲームである。

また、「ケ」のゲームが求められいるのは意外にもコンシューマー向けの据え置き型ゲーム機用ゲームも同じだったりする。かつてのファミコンの時代ならば、「ハレ」であったのだが、例えば今のPS2向けのタイトルをざっと見た時に「ハレ」だと断言できようか。もちろん「ハレ」もあるが、「ケ」というべきタイトルが多々あることだろう。ファミコンから20年、市場は「ハレ」から「ケ」へシフトしている。

じゃあ、全部コンピューターゲームは「ケ」になるのか、というとそうでもない。例えばポータブル型の携帯ゲーム機用ゲームは「ハレ」だ。特に今後のNDSPSPが形作るであろうワイヤレス市場は「ハレ」だ。というよりも、それを売りにせざるを得ない(任天堂が積極的なのに対し、SCEは結果的に積極的にならなければいけない状況のようだ。いずれにせよ同じ方向を向いている。)。そういえば、祭りの和太鼓を題材とした某アーケードゲームが大ヒットしたが、物凄く示唆深いではないか。なんせ題材が「ハレ」なのだから。

「ハレ」を求める人々の層というのは確実に存在している。ハレとケが区別が薄くなった現代でさえ、―いやむしろそういう現代だからこそ。過去と比べて確実に面白くなっているゲームに対し、「最近のゲームは詰まらない」と言うのは、ゲームの「ケ(日常)」化を示唆すると共に、ゲームに「ハレ」を求める層がいることを如実に物語っている。

祭りも正月も無形化するなかで、ゲームまでも日常化するのか。それとも、「ハレ」として存在し得るのか。その答えは分からないが、私は後者を信じたい。

*1:単純にビジネス的観点から見れば、新しい市場が生まれる事が予想され、将来的にオイシイビジネスとなる素質がある。私は興味ないが。