ゲームデザインパターン事例考察(1):"TwoStylesOfPlayAtOnce"―「難易度」のその先に見え隠れする面白さの本質
思うところあったので少し書いてみたい。
「面白さ」は「難易度」にあらず
- 作者: 岩谷徹
- 出版社/メーカー: エンターブレイン
- 発売日: 2005/09/17
- メディア: 単行本
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先日出版された、岩谷徹氏の本である。余談になるが、今度こういう本を出したので是非手にしてくれ、という旨のメールが岩谷さん本人から送られてきて驚いた。何のことはない、以前に名刺交換をしただけのことだったのだが。
さて気になったのは以下の部分だ。
- 岩谷
- (前略)繰り返しゲームをしてもらうためにも、プレイヤーにもわかりやすい納得できるミス設定を考えてあげることが重要ですね。そうすれば、次にその失敗を回避できるように作戦が立てられますし、それがゲームの楽しさでもあると思っているのですが。
- 宮本
- 私の師匠である横井軍平さんも同じようなことを言っていました。「やっている人が何をしているのかわかること、横で見ている人が何をしているのかわかることが大事」とよく聞かされました。あと、「簡単なことは誰にでもできるけれども、誰にでもできる簡単なことをふたつ同時に行おうとすると難しくなる」というのもよく話に出ました。
- (中略)
- スピードアップだけじゃ緊張感は生まれても遊びの面白さは生まれません。重要なのは内容の伴った難易度アップなのです。
強調部分2箇所は私によるものだ。前者の強調部分に触れる前に、後者の強調部分に関してもうすこし見てみる。
原文を読むと、この部分での主要なキーワードは「難易度」である。したがって、この部分は注意して読まないと、「難易度こそ面白さ」という意見なのかと誤解してしまう恐れがある。けれども、実際、言わんとしていることはおそらくそうではない。その証拠は別の部分で触れられている。
- 宮本
- (前略)…以前、私たちは難易度で興味を引っ張っていくものと考えていましたが、いまヒットするゲームには難易度がなくてもいいのです。
ここではなんと(少なくとも今ヒットするゲームに関しては)難易度はなくてもよい、とされている。
- 宮本
- (前略)…若手のスタッフは、より難しい方に(中略)したがります。しかし、そんなときは、「いまの難易度を半年経った違う自分を想定して考えてみなさい」といいます。
- 難易度を上げる理由としてひとついえるのは、ゲームの面白さが足りないから、難易度を上げたり、謎解きを難しくしたりしてしまうのです。ゲームがもっと面白ければ、隠すレベルを上げる理由もないですし、加える必要もないのです。
こちらではまた、難易度を上げようとするのは面白さが足りないからだ、面白ければ難易度はなくてもよい、としている。
これらの話をみても分かるように、「難易度」は一見キーワードのようで、実はキーワードではない。冒頭の引用内、後者の強調部分『内容の伴った難易度アップ』とは、実は端的にそのことを語っている。つまり、難易度が上がっているのはあくまでも結果的なことで、面白さを増加させた原因となる本質は別の部分にある、ということである。
本当に言わんとしていることは何なのか?
これまでの話を踏まえて、前者の強調部分、『簡単なことは誰にでもできるけれども、誰にでもできる簡単なことをふたつ同時に行おうとすると難しくなる』を見てみると、あることに気がつくだろう。実は、この横井氏のことばは、実は「難しくなる」ことが重要である、と言っているのではない。
前項で分かったように、難易度はなくてもよいのだという。そんなのは足りない面白さの埋め合わせなのだという。では、本当に言わんとしていることは何なのだろうか。
これだけではあまりにも材料が少なすぎるので、別の素材を持ち出してみることにした。それがゲームデザインパターンの一つである「TwoStylesOfPlayAtOnce」である。
「TwoStylesOfPlayAtOnce」のいわんとすること
「TwoStylesOfPlayAtOnce」はGameDesignWikiでは以下のように説明されている。
Games are more fun if the player needs to play two styles simultanously. The challenge of balancing the styles keeps the player on their toes.
この「TwoStylesOfPlayAtOnce」が言わんとしているところのそれは、ほぼ『簡単なことは誰にでもできるけれども、誰にでもできる簡単なことをふたつ同時に行おうとすると難しくなる
』と言わんとしているところと同じである。しかも、より具体的に説明がされている。
「TwoStylesOfPlayAtOnce」を横井氏のことばと組み合わせて日本語で言えば次のようになるだろう。
「簡単なことは誰にでもできるけれども、誰にでもできる簡単なことをふたつ同時に行おうとするとそれぞれのバランス取りが難しくなる。そのことがプレイヤーに緊張感をもたらし、さらにそれが持続するので面白くなる」
これで一つ明らかになった。TwoStylesOfPlayAtOnceや横井氏のことばの言わんとすることは難易度云々ではない。2つの行為を同時に行うことで生まれる、それぞれの行為への集中のバランス取りとそれに伴う緊張感。単なる緊張感ではない。むやみに上げた難易度でもない。バランス取りの緊張感こそ、人が面白いと思う、トリガーであり燃料であるのだ。実は難易度は、それを実現するのに伴う副産物に過ぎなかった、というわけだ。
考察まとめ
まとめよう。
- 「面白さ」は「難易度」にあらず
- 「難易度」はなくてもいい
- 「難易度」は足りない面白さの埋め合わせ
- 簡単なことでも十分面白さは引き出せる
- TwoStylesOfPlayAtOnce
- 「簡単なことは誰にでもできるけれども、誰にでもできる簡単なことをふたつ同時に行おうとするとそれぞれのバランス取りが難しくなる。そのことがプレイヤーに緊張感をもたらし、さらにそれが持続するので面白くなる」
- 「バランス取りの緊張感」こそ人が面白いと思うトリガーであり燃料
- 「難易度」はそれを実現するのに伴う副産物
- だから、「難易度」を指標に面白いゲームデザインを狙うのは誤り
実に優れた偉大な先人の知恵の結晶と言えるだろう。積極的に活用していきたいものだ。