理論と実践の乖離をどう克服するか(1)

ゲームデザインに対する批判でもっとも多いのが、「机上の空論だ」という批判である。それを理解した所でゲームはひとつも売れないし、ひとつも面白くならないぞ、というのだ。まあ、売れるかどうかという話はビジネスの話であるし、面白いかどうかと言う話はそもそも「面白いとは何?」というところからはじめるべきであってどちらかと言えばエンターテイメント論の領域だろう。とはいえ全く関係が無いわけではない訳で、関係があるにも関わらず「役に立たない」ではそのような批判を受けるのも当然であろう。

そのような批判はゲームデザイン研究者は重々承知済みである。悉く”実践的”なのもそういった批判を見据えてのことだ。「机上の空論」をもっとも恐れているのが他でもない研究者である。

にもかかわらず、何故批判は止まないのか。理由は簡単である。理論と実践が乖離しているからである。どれだけ実践的な理論であろうとも、それが実践されないことには何の意味も無い。批判がある、ということは現実に乖離していると言うことだ。

では、何故乖離が起きているのか。簡単に言えば、不勉強・不理解が原因である。理論を語る者が、実践の現場を知らない。実践に携わるものが、理論を知らない。理論と実践はそろって初めて効果を発揮するが、それが不可能な状況であるのだ。

遊びのデジタル化、つまりゲームにコンピューターを介す、コンピューターゲームは、ゲームデザインの幅に可能性をもたらしたが、同時に、ゲームの規模が肥大化し、作り手の分業化をもたらした。ごく初期の、デザイナーが同時にプログラマーでありアーティストでもあるという状況であるならば、理論と実践は乖離しようも無かった。だが現在はとてもではないがそうはいかない。

理論と実践は本質的に相互に矛盾を含むものである。ゲームデザインとゲームプログラミングを代表例に挙げれば、理解しやすいだろう。矛盾を内包しながら、しかしお互いを理解してゆくことは、個人の内部では可能であったが、それぞれが別々の個人に分けられてしまうとなかなか難しい。お互いを理解し合い、相手の言い分の正当性を理解しながらも、それぞれの違いを意識して自らの正当性を主張してゆかねばならないのであるから。「愛し合いながら殴りあう」ようなものだ。

もっとも、理論と実践のすり合わせでは、実践側では比較的容易である。まず、実践をした後で理論武装、が出来るからである。だが、理論側の場合はなかなか大変である。片手間では実践はできないからだ。特にコンピューターゲームの場合、コンピューターに命令できるだけのスキルが必要になる。理論側が本業、というゲームデザイナーが殆ど居ない所以である。

この辺の問題は実際の開発のプロトタイピングの問題とも近い。プロトタイプはまさに理論と実践のすり合わせそのものであるが、それ故簡単にプレゼンテーションできるものである必要がある。しかし、ゲームの場合、場と言うか環境と言うか、そういった性質のものであるため、文章(企画書等)では意味を成さないし、ペーパープロトタイピングのような方法でも全く不十分である。最終的に実際実装されたもの、と言うことになってしまうが、簡単とは程遠くなってしまう。