もう、神の否定の時期に来ている

初めて聞いたときは、それを理解できずピンと来なかったが、しばらく経って、「ああこういうことだったのか」、と理解できるようになるということはしばしばある。特に何かを学んでいるときには、いきなりドンと正解を言われてもすぐには理解しがたいものだ*1。理解に差があえばなおさらのこと。何かを極めた人間の言葉が時に感覚的と評されるのは、これが一因であろう。

こういった経験は私にも記憶がある。水口哲也氏が一昨年に「ゲームとユビキタスは相性が悪い」と言って、ようやくそれが理解できたのは1年後のことだ。そしてつい最近にも同じようにようやく理解できた話があった。これもまた理解に1年ぐらいかかった。恐らく「1年」というスパンは私が何かを理解するのに必要な標準スパンなのだろう。願わくばもう少し短くなって欲しいが。

その1年かかってやっと理解できた話とは「スーパーマリオは古い質のゲームだ」という話である。ちょうど1年ほど前、昨年のGDC2004でEAのNeil Young氏によって話された話である。国内では、4Gamer.netの記事などで報道されたので記憶に新しい人も多いだろう。

この記事というのが曲者で、こういうある意味衝撃的な話は報道しているが、何故そういう結論になるのか、という肝心要の部分がきれいに抜け落ちている。従って、衝撃的だね、という感想は抱いても、この意見に対して賛成も否定も出来ない。いや、正確には理解できない。GDCのサイトで公開されている資料なりなんなりを当たれば理解できるのかもしれないが、あえてそこまでやろうという気にはならなかったので長い間記憶の隅にこの発言は追いやられていた。

まあ、普通に考えても、確かに基本は20年前のタイトルで古い。それで古いというなら納得が行く。ところが質が古いとはどういうことか。未だにあれだけの訴求力を保ち続けている訳で質が古いというのはあまりピンと来ない。普通に考えると理解しがたい話である。

理解のきっかけになったのは、昨年、d:id:hiyokoya氏との話の中で出てきた「とある話」である。hiyokoya氏は古いファミ通などをちょうど集めていた時期で、私はまったくそういうカルチャーに縁の無かった者なので興味深く話を伺っていた。話の中のひとつに、たしかゲームセンターあらしファミコンロッキーという漫画だと思うが、その漫画の中での「スーパーマリオブラザーズ」の捉えられ方の現代とのギャップの話があった。

現代において「スーパーマリオブラザーズ」は名作と捉えられていると共に、「基本」「スタンダードベーシック」「シンプル」などのイメージが抱かれている。しかし、当時は、ウラ技・隠し要素・やりこみ要素の集大成のタイトルとして捉えられていた。「ゲームセンターあらし」では実際に台詞としてそのことが語られているらしい。これは単にプレイヤーたちの思い込みではなく、実際、宮本茂氏もそういうつもりで開発したという話をしている。

要するに、「スーパーマリオブラザーズ」は実は大作主義の塊だった、ということだ。それ以前にも大作主義を志向したタイトルは多々あっただろうに思うが、以降のコンピューターゲームの方向性を決めたのは、他でもない「スーパーマリオブラザーズ」の大ヒットだった、ということは容易に想像が付く。「スーパーマリオ後」のタイトルは悉くリニアな増加拡大複雑化の道を歩み続け、今に至っている。

こう考えると、「古い質」がどういうことか想像が付いてくる。大作主義、作りこまれた作り、ハリウッド的/ディズニー的、20世紀的…、言い方は色々あるだろうが、今まさにこの質からの脱却が問題になっている。特に北米市場は、分担化によって規模の大きなタイトルを開発できる体制を整えたが、同時にそれはイノベーションに欠けることを意味していた。そういう意味で彼ら北米の開発者の危機感は国内のいわゆる「ゲーム離れ」に匹敵するものがあったのだろう。特にエンターテイメントが驚きであることを理解するならば、なおさら古い質とおさらばしなくてはならない。例の記事の発言は、


本来のエンターテイメントとは受けてにとって"楽しい経験"であることにほかならない

という発言に繋がっているのだが、こう考えて初めて繋がってくる。「スーパーマリオ」は「古い質」の象徴なのだ。別に日本批判ではない。だれよりもその呪縛から逃れられないことに対する警鐘であろう。

もちろん、実際にNeil Young氏が本当にこういうことを言いたかったのかどうかは分からない。だが、私はこう理解した。おそらくそれほどずれてはいないのではないかとも思う。なぜならば同じ趣旨の話は良く聞くからだ。ただ、この話のユニークさは、「神格化された存在」の否定から入っているということだろう。逆に言えば、もう、神の否定の時期に来ている、ということなのかもしれない。

果たして、どれだけの人にその覚悟があるだろうか。神を否定するだけの覚悟が。

*1:だから、教育には嘘が必要なのだ。