生きる意志を失わないように

大学生活3年目ももう少しで終わりだが、私も人並みに就職活動などという活動をしている。一応は企画職を志望、なので大抵の場合どの募集要項を見ても企画書の提出が義務付けられている。ところが困ったことに書けない。書こうとしてもペンが進まない。これは困った。

この原因が、「初めての経験で書き方が分かりません!」という経験の無さからくるものであるならば、その対処法はいくらでもあるので問題ない。「アイディアを出しすぎてしまってネタ切れだ!」というものなら時間が解決してくれるだろう。私の場合は前者でも後者でも無さそうである。一言で言えば書く意欲が沸かないのだ。

この事実に気がついて驚愕した。強引に言ってしまえばこの3年間はこの企画書を書くためだけにあったようなものだ。研究室時代に(真似事のレベルであったとしても)コンテンツの開発を経験し、半年でつぶれたが自分で企画書を通してプロジェクトを立ち上げたこともあった。研究室をやめた後もCEDECやらIGDA-Jのお世話になったり、色々な先人の方のお世話にもなった。結果的に見てみれば、普通に過ごしていてはとてもじゃないが経験できないことを経験させていただいてきたわけだ。知りえないはずのことも知りうるようになったわけだ。企画書を書く材料にどうして困ることがあろうか。

ところがいざとなって見ると書けない。一体なんだこれは。

「羨望は無知」、とはよく言ったもので、知らないからこそ憧れられる。憧れがあるからこそ、多少の無理にも動じず、行動力も自信も身につく。意欲の根源は羨望であり、すべては無知が生みだす魔法だ。無知の塊であるはずの赤子が同時に可能性の塊でもある所以だろう。

かつて私は無知だった。だからこそ突っ走れた。今の私の経験の元は無知がもたらした事だ。「大学でゲームデザインの研究をしよう!」などという馬鹿げた考えを抱いたのも、アカデミックの現状に無知だったからであり、そもそもゲーム開発に興味を持った何年か前の私も、実際の開発に無知だったからだ。無知な時代の私だったなら、企画書の類などは(その質は問わないにしても)何十部も書いていただろうし、先日のGDCの誘いにも即座に両手を上げて今頃は眼を輝かせながらSlash gamesあたりの記事を読んでいたり、某MPUの詳細を漁っていたことだろう。

月並みな表現だが、知りすぎてしまった。もっとあとで知るべきだった。いや、ずっと無知であった方が幸せだったかもしれない。原動力を失ってしまった。

たしか1年位前の日記でも似たようなことを書いていた気がする。もっともそのときはまさかこの期に及んでまでも影響があるとは思わなかったし思いたくなかった。今この場で数年を棒に振るつもりなのか、ときかれれば否定するが、今の行動を指摘されたら閉口するしかない。…久しぶりに欝な気分だ。

困ったことに打開策を探している時間がない。これがさらに欝な気分にさせてくれる。しかも自分自身は何かを生み出そうという意欲と意思と力が欠けている。ある日突然この世からオサラバするひとはこんな気分がきっと酷くなるとそうなるのだろう。こんなことは永遠に理解できるようにはなりたくなかったが。

羨望は無知、といいつつ無知に羨望している自分がいるこの状況は我ながらおかしい。結局ここのタイトルも羨望だった訳か。そろそろ一休みするべき時期なのかもしれない。