表現力は進化した。だが表現は退化した。

表現論の話。

ピコピコという電子音。ぎざぎざした荒いドット絵。かつてコンピューターゲームといえば多くの人がこれをイメージした。いまやこの表現はほぼ絶滅し、昔話として懐かしさを伴って語られている。

かつてコンピューターゲームは熱狂的に受け入れられた。その要因にこれらの表現が大きく影響していた。時代のながれということもあったが、何より新しかった。その表現の非日常性は、エンターテイメントとしてのコンピューターゲームの価値を大きく高めた。その表現のプリミティブさは、文化や世代を超えて広く受け入れられる原動力となった。「遊び」は文化よりもアプリオリな存在である、というホイジンガの説の傍証とも言えよう。

かたや現代のコンピューターゲームの表現である。表現力は明らかについた。いまさらここで説明するまでもない。だが、表現として、はたして過去の表現に勝っているだろうか。過去の表現よりも非日常的で、文化や言語、世代を超えた表現だろうか。現実は、ごく一部のまれな例を除いて、過去の表現に勝るものは少ない。表現力は進化した、だが表現は退化した。

別に回顧主義ではない。いまからピコピコドット絵に戻せ、というわけではない。そんなことをしたら愚の骨頂である。それもまた退化なのだから。

答えは簡単である。他のメディア向け表現の猿真似を辞め、ディテールを弄繰り回すことを辞め、コンピューターゲームに本当に適した表現をする、これだけである。かつてはマシンの性能という環境の制限があったが、今は環境はとてつもなく恵まれている。これで一体何の不足があろうか。

唯一不足があるとすれば、「表現者」か。表現者は映画監督でも、画家でも小説家でも無ければ、コンピューターゲームは自己表現のメディアでもない。もっとも適切な表現を出来るか。本当の意味でのartを理解しているか。表現者は身をわきまえなくてはならないのだ。