それでも物語を書かなければならないというジレンマ


「物語(またはシナリオでもいいですが)を書きたいがためにゲームを作っているわけではない人」がよくぶつかる壁は、「それでも物語を書かないと作品が完成しない」というジレンマです。

面白い話。

通常、ゲームと物語というと、後者が圧倒的に歴史も情報量も多いが為に後者の理論で語られることが多く、それ故本質の見えていないおかしな話に終始してきたという感が強い。「実体験」と「追体験」ではそもそも同一線上で考えること自体が難しいのだが。

今回の話はそうではなくて、ゲームの進行具合をどのように表現し、プレイヤーに分からせるか、という問題。過去のゲームでは「スコア(得点)」「ステージ(または面)」という発明があり、今回の話のいうところの「物語」も結局はその一種に当たる。

「ゲームの進行具合としての物語」は通常のストーリーテリングとは異なり、作品の演出に過ぎない。「小説や映画などに於けるシナリオ」ほど重要なものではない。「野球はシナリオがない」という言葉はゲームの本質を良く突いている言葉だと思う。しかし、単に演出と言っても、それがゲームデザインを規定する場合もある。今回の例などはまさに良い例だろう。

個人的には「演出」には2種類あると思っている。ひとつは本当に無くてもいいもの。もうひとつは無くすことは可能だが、大きな変化があるもの、だ。その意味で「ゲームの進行具合としての物語」は後者に当たるだろう。

今回の「それでも物語を書かないと作品が完成しないというジレンマ」は結局の所、「物語」に代わる進行具合の表現が見つからない、と言うことであろうと思う。単に目的を設定しただけでもゲームにはなるが、それだけでは味気ない。もっと突っ込めば、エンターテイメントが成立していない。ゲームから「物語」を取り払うことは可能であり、その意味では演出に過ぎないのだが、あまりにも良く出来た演出なので完全に取り払ってしまうと大きくゲームそのものが変わってしまい、完全に取り払うことも難しい。そんな所ではないか。

考えてみれば、実に表現の幅が狭い。目的の達成もしくは失敗の表現は数回しか表現されないのに対し、進行具合の表現は常にゲームプレイ中関わるものだ。それなのに「スコア」や「ステージ」、「物語」という古典的な数種類の選択肢しかない。ゲームとストーリーメディアを混同する輩がでてくるのも頷ける気がする。

逆に考えれば、これらゲームの「お約束」は、既存のゲームの可能性を閉じている要因でもある。選択肢の少なさがゲームの多様性を殺いでいるとすれば、それは不幸なことだ。ひとつゲームにブレークスルーがあるとすれば、ここに進化が起きたときだろう。「物語」に代わる「発明」がいつでてくるのか、注目である。

個人的には1年位前から挑戦しているのだが、スコアもステージもシナリオも(さらに「お約束」のひとつであるエンディングも)取り払ったゲームは実現可能だが面白くないと言う結論に落ち着いている。結局代替品が見つからないのだ。「ゲームにはなるがエンターテイメントにならないというジレンマ」とでも言おうか。「Rez」を挙げるまでも無く、ラディカルなゲームはあまり面白くない、という(私のようなゲームに新規性を求める人間にとって)悲しい現実。シリアスゲームのようにゲームにエンターテイメントを求めなければいいのかもしれないが…。