某S社の会社説明会

某S社の会社説明会に参加。内容は強気。当然といえば当然だが、親会社とウチは違うんだ、子供が親を支えるんだ、などなどかなり強気。若くて自由、柔軟な組織をあれだけ強調すれば、何も知らない無垢な学生は騙されて魅了されて思わずエントリーしてしまうだろう。嘘は言ってないあたり、シタタカだなぁ、とも感じた。

そういえば例の件に関してはやたら謝っていたが、やはり気になるところなのだろう*1。もらった資料のおまけは腕時計だった。太っ腹である。Siggraphの企業ブースでもこういうものはあまり配っていないのに、一体どこがこんなに景気がいいのだろうか??。気になるところである。

*1:これにかんしては言いたいことは色々あるのだが残念ながら諸事情につき自己規制。

水口哲也氏講演

都内から戻ってきて、次は水口哲也氏の講演である。水口氏の講演は大学に入ってから何故か毎年一回は聞いている。今回は前々回と同じ場なので基本的には同じ話題が続いていたが、話の後半は今まで聞いた話の中でもっとも面白い話だった。

去年の講演はあまり面白くなかったが、それはある程度話題が規定されていた中だったためか、水口さんは話しにくそうにしていた。それに比べると今年はずっと生き生きしていた。ここ数年水口さん自身の環境も大きく変わっているはずなのに、むしろ生き生きしているのは、その変化を知っている身としては少し奇妙にも写ったが。やはり、自分のいいたい話が出来ている、また、自分のやりたいことが身軽になって出来ている、そういうことがあの生き生きさに繋がっているのかもしれない。

色々な話をされていたが、記憶に残っている話だけピックアップ。

感情のストック&リリース

「何故ゲームで人は泣かないのか?」―それは映画などは感情がどんどんストックしてあるとき規定量を超えてしまうので「泣いてしまう」が、一方ゲームの場合感情のストックがたまった後に、アクションを起こすことでそれをリリースする。従って、人はゲームでは泣かない。受動のメディアと能動のメディアの大きな違いはそれである。

先天的欲求と後天的欲求

欲求には二種類ある。先天的欲求と後天的欲求である。前者は生理的・原始的なものであり、恐らくこれは30〜40種くらいだろうと考えている。これは文化や言葉に左右されないプリミティブなものである。後者は大人になるにつれ出来てくる個人的嗜好である。これの種類は無限に近い。

ポケモンは収集欲・競争欲・対戦欲などの先天的欲求をうまく組み合わせたものである。子供は先天的欲求の影響が大きく、後天的欲求が少ないために、ポケモンはディテールがたとえ日本的なものであっても気にせず世界中で受け入れられる。大人になるにつれ後天的欲求つまり個人的嗜好の影響が大きくなり、〜じゃなければ、とか、やっぱり〜だよね、と言い始めるようになる。

(注:つまりこれは何故ゲームが大人層になかなか受け入れられないのか、という説明でもある。ディテールを追い求めた細分化の流れはまさにこれであろう。)

ある程度、広く受け入れられるためには先天的欲求を追及する必要がある。

受動と能動のスイッチ

人間には受動と能動のスイッチがある。コール&レスポンス(注:このコール&レスポンスの話はよくしているような気がする)、つまりインタラクティブな活動の時に、同時にコールとレスポンスをする人はいない。必ずスイッチの切り替わりがある。

一時期映画なのかゲームなのか良く分からないひどいタイトルが出ていたことがあったが、この受動と能動の切り替えという人間の仕組みを無視した為にひどいものだった。このような人間の仕組みには気をつけなくてはいけない。

「ガムが売れなくなったのはケータイが原因」

ガムが数年前に売れなくなったことがある。なぜかと思って調べてみたら、理由は携帯電話だった、という話がある。飴やチョコレートなどの菓子類ではなく何故携帯電話なのか。

それはガムがどんな欲求を満たしているかを考えれば原因が分かる。ガムは暇つぶし・口さみしさを満たす・何かしていたい、というような欲求を満たしてくれるものだった。ケータイはそれらの欲求を満たしてくれる為に、ガムに取って代わった。

このように欲求を満たすものは時に大きく質が変わる。しかも近年はその変化が激しくなった。欲求を見ていないとその変化はわからないだろう。ゲームも、おそらく何かに取って代わる。それはゲーム自体の進化かもしれないし、まったく別のものかもしれない。いずれにせよ今のままのゲームではなくなる。

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これ以外にもROMは無くなるとか色々と言っていたが、これらの話は前々回には聞かれなかった話なので興味深いものであった。ひとつ確信したこととして、水口氏は「感覚と欲求に基づくゲームデザイン」の理論を自身の中に確固とした形で確立しつつある、ということがある。今回はそれをものすごく感じた。去年や一昨年の時点ではまだそれが出来ているようには感じられなかったので、ここ一年の間に言語分析化が進んだようである。

水口氏は感覚的な話が多い、と言われるが恐らくそれはなんとなく分かっているが言語化出来ないゆえの現象だったのであろう。今回は大分具体的な形で話していたように感じた。是非、言語化文章化してオープンにして欲しいものである。